知人の連帯保証人になったばかりに、
巨額の借金を背負って、
長年順調に業績を伸ばして来た自分の会社が、
倒産に追い込まれた父。
さぞ悔しかっただろう。
さぞ落胆しただろう。
お洒落で少し見栄っ張りだった父には、
屈辱的でもあったに違いない。
何より、抱えた借金の膨大さに暗憺たる気持ちだったはずだ。
しかも当時、3人兄弟の長男の私が東京の大学に入学して、
間がなかった。
弟たちも地元の高校生。
お金がいくらあっても足りない頃だ。
今振り返ると、よく大学を中退しなくて済んだものだと思う。
しかし当時は、驚くほど暢気だった。
夏休みなどに帰省しても、父は自分の辛さ、
苦しさを子供たちには、爪の先ほども見せなかった。
相変わらずユーモアたっぷりで明るく、
話題の大半は天下国家のことばかり。
アルバイトをして家計を助けろ、
なんてことはまるで言わない。
学生のうちは、学生じゃなければ出来ないことを、
悔いの残らぬように、やり過ぎるくらいやっておけ、
と繰り返し言っていた(但し、勝手にアルバイトは色々やった)。
私のお気楽な半生の中でも、
取り分けお気楽だった学生時代と、
父の生涯で最も辛く厳しかった、
無職で借金の山を抱えていた時代は、ほぼ重なる。
にもかかわらず当時、私が接した父は、
私に劣らぬほどお気楽そうに見えた。
家族皆にはいつも優しく、
困った人が相談に来れば親身になって相談に乗り、
皇室と国家の行く末だけを案じ、
公のことではいつも憂憤を抱いていた。
学生の私から見て変化に気づいたのは、
自家用車のランクが下がったことと、
母がパートに出始めたこと、
それから父が平日、普通に家にいるようになったことくらいだ。
「くらいだ」って、大変化じゃないかと思う人も当然、
いるだろう。
しかし、私はそれを変化らしい変化とも気づかなかった。
何故なら、家庭内の楽しげな、
明るい雰囲気は全く変化していなかったからだ。
自宅まで抵当に入れられ、
競売にかけられていたことを知ったのは、
ずっと後、父が事業を再開し、
自宅を自分で買い落としてからのことだ。
父はその頃、平日の昼間、競売にかけられていた自宅の、
書斎を兼ねた応接室で、
革張りのソファーに仰向けに寝っ転がって、
悠然といかにも幸福そうに、好きな本を読んでいた。
少なくとも私には、そのようにしか見えなかった。
(続く)
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